最近、ちょっと思うことがある。
引っかかるところというか。
「好みや意見が合う人と一緒にいる方が幸せになれる」的な話は今も昔もよく聞くし実際にそうだと思うんだけど、昔と現代とが決定的に違うのってインターネットやSNSで気軽に意見や好み・趣味が合う人を見つけられちゃう、マッチングできちゃうってことだよね。
もちろんこれらは、めっちゃ良いことだって思うの。
このこと自体は。
でもそれって小規模な村社会がお互いに交流がなかったり、批判しあったりしてるだけだとしたら窮屈な社会のような気もするんだよね。
多様性ってお互い認め合った上ではじめて成立する共存関係のことを言うんじゃないの?
はじめまして。21世紀。未だ20世紀に解決するはずの問題は山積どころか増える一方で、思い描いた未来とだいぶ違うみたい。
それでも僕らはそれを認めたくないから、せめてもの先進性として人類が進化した形を多様性に求めた。
誰もが自由で自分らしく、どれも皆違って美しい世界。
残念なことにそこまで人類は進化しきっていなかったし、全ての人がその思いを共有しきれてはいなかった。
好きなもの同士が集まり寄り合い、そうでない者たちを斬り合う。
一部の意見は誇大にすくい上げられ、集団感染として世界を飛び回る。
多様化しているようで、全く逆のことが起こっているようにすら思えるのだ。
僕はこれをヒステリー社会が生んだ偏執的社会性(Paranoiac Sociality)と呼ぶことにした。
極端な意見を受け入れる素直な心があるのなら、それは対岸の火事にこそ向けてみてよう
別に積極的に首を突っ込めって話じゃなくてね。それでも、やっぱりSNSとかネットの世界って極端な意見が支持される傾向があったり、人の特性として言い切りの文章の方が歯切れが良い。
ただ、歯切れが良いことと真実性・信憑性って全く関係ないからね。
ただ単にコミュニケーションの仕方の問題だから。
むしろ、断言できることばかりでないのによくそんなに言い切るなって思うけど。
キャッチコピー的に煽りが多いのもネットの特徴だけどね。
ただね、これらもあくまでネットの中の出来事だったら俺もそんなに気にならないんだけど、最近はそれが現実社会にまで影響を及ぼすようになってきたでしょ。
それはさすがにどうかと思うわけ。
ヘイトスピーチやヘイトクライムみたいなのもそうだし、どうみてもダメでしょって政治家すら全体から見ればアウトでも30数パーセントの支持を集めれば、我が物顔で国会議員になってしまったりしている。
先進的な思想は副産物として、取り残されて孤独を深めることになった一部のものの不満の捌け口として、教祖や神様を創ったんだろうね。
これを多様性と言って良いのかね。
もしそうだとするなら、それはちょっと悲しい世界とは思わないかい。
人類が発展できたのは、幸せを分け合い助け合ったからってはっきりしてると思うんだけど
争いって一時的で局所的な優位性は担保できると思うだけど、長い目で見るととても発展的なことと思えないんだよね。最近、あるブロガーさんと話しをしていた時にルサンチマンについて言及したことがあったけど、現代は本来のルサンチマンとは違い、弱者と強者の関係ではなく弱者同士の争いなんだよね。
それをあたかも当事者は強者との対立構造のように勘違いしているけど、どちらかと言うと強者にうまく利用されガス抜きや、同族の自然淘汰を仕組まれてるように思えてならないんだよ。
だからね、余計可哀想だし悲しいって思うんだな。
弱者が強者に対してやってんなら、別にそんなに悲しくはならないもん。
それでもさ、人を信じるよ。人の可能性を。
色々言ってきたけど、別に悲観的になっているわけじゃないのさ。そうそう言い忘れてたけど、僕ヒューマニストなんです。
って言うようにしろと言われて以来ね。
んま、言いたいことはちょっと立ち止まって考えてみようよってだけ。
そんなにすぐにバイラルに感染しないでよ。
分けるなら幸せを分けようよ。
ps,最近話題らしいヌードルハラスメント、通称ヌーハラ?
他国の食文化を理解しようともせず否定するあなた方は、カルチャーハラスメント(カルハラ)ですよ。おもてなしされるからって調子に乗り過ぎてしまう人は、日本でなくても嫌がられちゃいますよ。
苦手ならそういう場所に行かなきゃ良いだけだしね。
まるで同化政策みたいだよ。
そうなった時、あなた達が愛してくれた日本ってなんだったんだろうね。
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