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雨の国会議事堂前 |
8月30日。
僕の足は国会へと向かっていた。
SEALDsの呼びかけた国会前抗議行動に参加するためだ。
今日は、安保関連法案や集団的自衛権についてではなく、彼らSEALDsについて書こうと思う。
SEALDsの行動を「若さ」と呼べるだけ、僕らは行動していたか
ネットなどでSEALDsについて否定的な意見を目にする事がある。その多くは右傾メディアやネトウヨなどの2chまとめなのだが、その中で僕の目に留まったのが彼らの行動に対して批判的に用いられた「若さ」というものだった。
さて彼らSEALDsの行動を「若さ」と切り捨てられるだろうか。
自分自身が20歳だった頃を思い出して欲しい。
ここまでの行動力があっただろうか?
ここまで社会について考えていただろうか?
またそれを共有し仲間や組織を作れただろうか?
僕自身を振り返ると、それら全てにおいて、彼らの方が遥かに上をいっていた。
別に遊んでいた訳ではないが、僕の熱意は自身に向き、ここまで実行に移す行動力を持たず、共有する仲間や組織は作れなかった。
この一番最後は、単に友達関係という事ではない。
僕が社会に出て、会社という組織を通じて感じた、本当に必要な事を彼らは満たしていた。
20世紀に僕らが出来なかった事を、彼らは21世紀の現代で実現しているんだよね。
それは人類として、また日本人としての「進化」だと僕は思った。
ひとりの大人として彼らの事を尊敬するし、まだ会社に属していないというだけで、彼らは立派な社会人だ。
勇気を超えた譲れない思い
卑怯な大人はあの手この手で脅しをかける。足元を見て内定をぶら下げて不安を煽る。
僕は彼らの気持ちが痛いほどわかる。
僕自身、転職活動とデモなどの市民運動を並行して行っていたからだ。
行動についての善悪ではなく、未だに日本では「本音と建前」の文化があり、デモや政治についての話題になると急にタブーや腫れ物になってしまうからだ。
「そんな会社には最初から入らない」
本当にその通りなんだよね。
それでもね、実際にそうできるかってなると、僕だって相当勇気が必要だった。
できれば転職活動が終わってからにしようかなって少し思った。
でも、そうしなかったのは僕の意地と信念だった。
もう勇気ではなかった。
SEALDsのメンバーもそうだったのではないだろうか。
彼らに対する否定的なコメントを完全に否定しようとは思わない。
ただ、彼らの行動力と指先で語るほんのわずかな行動を同等に捉えてはいけない。
少なくとも勇者がどちらかという事は、誰の目からも明らかな事だから。
忘れるものか、この一分一秒を
8月30日。その日は僕の祖母の命日でもある。ちょうど一周忌を迎えた。
胸を張って報告できるね。
忘れるものか、この一分一秒を。
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