2015年7月20日月曜日

当て書きの人生など捨ててしまえ。


当て書き(あてがき)という言葉をご存知だろうか。
主に舞台や演劇の世界で使われる言葉で、演じる俳優の人物像をそのまま作品に反映する脚本家や作家によるアプローチ方法だ。
三谷幸喜さんとかがよく用いる方法だよね。
元からキーポイントになる配役を決めておく事で、よりリアリティあるシナリオ作りができ、完成系のイメージも容易なため、非常に多く取り入れられている。

事実、〜さんこの役で書いてるから。みたいな話はよくある。
俳優の側も当て書きの場合は、自分をイメージして書いてくれているので非常に演じやすい。
また、見ている側もキャスティングによる不備が起こりにくいので観やすいだろう。

ただし、僕はこれが猛烈に嫌だった。
と言うのは、自分自身凄い演じやすい役というのは、役者としての成長を与えてくれないからだ。
また、それは書き手に取っても同じ事が言えるのではないだろうか。
もっと言えば、それに関わるスタッフや観客にとっても。
みんなの共通項を予定調和に受け取るなら、過去作品でも観ていれば良いのだ。
誰も冒険しないで済む。
こんなもの芸術と呼べるのかは甚だ疑問ですがね。
別に全否定はしないけど、創造集団が創造しなくなったら何集団だよって話だからね。

ルーティーンの仕事は必要で、ここに来れば同じような価値を受け取れるというのは凄い魅力。
でも、それしかしなくなったら学芸会以下だぜ。
子どもなら内容はともかく成長見たい親ベクトルがあるから良いけど、死にそうなジジイどもの最後の奉公に孫世代まで駆り出すなや。

んでまぁ、何が言いたいかっていうと
別に演劇や当て書きについて書きたかった訳ではなくて
この当て書き的心地よさに慣れるのは劇薬だぜって話。
自分を客観視するとね
プライベートとかでも無意識に演じているんですよ。
その人の望む人物であったり都合の良い人を。
だから、僕は意識してそうしている訳ではないのですが、違うコミュニティから見ると別人に見えたりするのでしょう。
ポジティブなキャラクターならまだしも、できない自分まで演じるようになるとさすがに始末が悪い。

当然、大人なんで仕事とプライベートのON/OFFくらいはありますけど
そういうのとはまた違ってね。

染み付いちゃってるんですね。
当て書きされる事と、それを演じる事が。
そして、それが嫌だったからそうじゃないものに触れた時、本当は自分の中に何もなかったって事に気付いてしまったんですね。
以前書いてどうやら勘違いされている方が多いようだったので改めて書かせてもらうと
僕は才能があるとかないとかはどうでも良いと思ってますよ。
天才とかの類は、他人が見てどう思ったかって話ですから。
んで、自分に才能がないと思った事は1度としてありませんし、ありすぎて困るなってくらいの自意識過剰を持ち合わせたファインボーイですから。(⒈ボーイ?⒉いやむしろファインのほうだろ)
ただちょっと自信が足りなかっただけですね。
才能が足りないと言ったのは、周りに対しての予防線です。
僕も舐められたものです。
ついでに言うと主役がやりたい訳でもねぇよ。
そんなんとっくに演ってるわ。
分かるようになってから経験しておきたかってだけで、むしろ信頼されない事への苛立ちだわ。
仕事的に言えば、任せられない上司への不満に似てるな。
どうする?こんな才能あんのに(お、おう)

それはさておき
当て書きをしたのかされたのかは問題ではなく
可能性のレンジはインフィニティ。(横文字)
やりたい事、思いっきりやろう。
何がやりたいかわからない時は、何もしないゆっくりとした時間と普段しない事をしてみる。
新しい発見があるかもしれませんよ。
怒られる事もあるかもしれないけど、怒ってる人たぶんあなたの人生に関係ないですよ。
ていうかあなたの人生ですよ。

育ちとかさ、〜だからとか本当くだらない。
んじゃ育ちが悪かったら何か次の行動が変わるの?
〜だったらできない事があるの?
てめぇがそう思ってるだけじゃねぇか。(ヒィ)
つまんねぇシナリオ書いてんじゃねぇよ。

当て書きのない人生を。
Bon Voyage!(ど、どうした!?)
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