思考整理メモからの派生。
つまり、それは僕自身がどうかって事でもあるんだなって思った。
モラトリアムなんてとっくに終わっている筈なのに、子ども時代の僕がいて今の僕がいて、子どもの立場や親の立場から両親というより親子について考えてしまう。
文字にして気付いた事があって、それは自分の主体性がどちらにあるのかって事なんだって。
親の前では子になるし、子の前では親になる。当たり前の事だけど、その両方に正当な主体性がありだからこそ葛藤するんだって。
でも、問題はどの時代の自分にアクセスしてるかって事なんだろうな。
子の立場で考える事と、少年時代の思いや感情にアクセスする事は別だ。
あの時〜に思っていた、そしてその感情を思い出し、どうして〜なんだと考えるのはやはり変だ。
だって、それは子の立場ではなく、その時の感情へのアプローチだから、今の自分のものの考え方と過去の自分の考え方を同等に捉えようとするから葛藤するんだろう。
だから、それはもう良いんだよって思った。
過去の自分を同等に大切にしようとしていたんだな。
なるほどそういう事なのか。
つまりどう生きるかとは、どれを選ぶか、自分の主体を何処にするかって事なのか。
過去の自分に主体性があるなら、今の自分と葛藤するのは当然なんだ。
だって今を生きているんだから。
今を生きながら過去を生きようとしなくても良いんだよ。
それが、今書きながら納得できた。
過去にリアリズム演劇で芽生えた葛藤は、家族をイメージできなかった役者としての茫然自失と思っていたけど、それは心理的ブロックでその時の僕にはまだ向き合う事ができなかったんだろう。
解れば、なんだこんな事ってくらいになんだけどね。
僕が子どもが欲しかった理由って、本当はイニシエーションを通して自身の成長を促したかったのかもね。
いや〜でもなんかスッキリした。
荒療治だなしかし。
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