2014年7月10日木曜日

10年前の今日。僕はつぶやいたか。

やはりこの疑問なのだ。
もはや習慣と化したFacebookやTwitter、Lineなどに代表される各種SNSでのコミュニケーション。
情報化社会の発達は未成熟な社会を露呈させ、それはマスコミュニケーションの体制的欠陥を補完した。
道具を与えられた僕らは更なる情報を求めた。
需要が供給を逆転したのだ。情報が足りない。
情報は求める者が与える時代、21世紀を象徴する個の発信へと急速に舵を切った。
思えば2003年に個人情報保護法が成立し、一時的にプライバシーに過剰反応ともとれるアレルギーを起こした僕らは、その抑圧の中それでも誰かと繋がっていたいと反動として自らIDを差し出したんだ。
アイデンティティ。
僕ここにいる。私はそこにいる。
加速度的に個で溢れた世界は距離や時間を超越し取得のハードルを下げ、また相対的に情報そのものの価値も下げた。
それは単に情報の既得による優位性の変化だけでなく、煩雑な情報で溢れた1つあたりの価値だ。
しかし、それこそがSNSの面白い所なのだろう。
インフォメーションパンデミックとでも言うべきか、価値ある情報にはまるで集団感染のように爆発的に大流行するのだ。
一昔前、ウイルス進化論が注目を集めた時期があった。
進化がウイルスにより誘発促進されると。
情報がウイルスだとするならば、それはリテラシーによって排除すべきものなのか、受け入れて自らを媒介として更なる感染者を生むのか。
まるでSFの世界のようだ。
僕がつぶやく次の言葉は、オートコンプリートによってつむぎ出され個の行き着く先は統合なのか。

そして、やはりこの疑問なのだ。
10年前の今日。僕はつぶやいたか。
内言化した思考を外言化している事実。
それは単にメールやチャットとのコミュニケーションとは本質的に異なる。

私はこの内言的コミュニケーションはいずれ本来のコミュニケーション否定する存在になると思う。
SF的に言えばテレパシー?
別に僕はぶっ飛んだ事言ってるとは思ってないよ。
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