2013年2月15日金曜日
This is my life.
個人として政治的な事柄や思想・信条を語るのは、現代日本においても不利益の方が大きい事はハッキリしており、蜂起の呼びかけも美辞麗句に聞こえ疑問の毎日だった。
いかに憲法で保障された権利であったとしても、悪しき日本の国民性というべきか「本音と建前」の前に黙殺される人々、地位を追われる者など、その者が認められるのはごく一部のコミュニティに限定し社会的にはマイノリティとして切り捨てられてきた現実がある。
これは内部告発などにも言える事で、その正義に対してのセーフティネットは殆ど機能していない。
2013年、現在においてもだ。
全てを受け入れ、疑問も持たず、ひたすら目の前の事に従事し、家族との幸せな時間を過ごす。
それもひとつの生き方で、否定するつもりは全くない。
というより、人の生き方に対して意見出来る程の人間ではない。
僕に限らず本来人の生き方や思想・信条に対して誰も何も言えない筈なのだ。
仮に言えたとしても、それを第三者から強制する事などもってのほかだ。
そして、改めて僕は思うのだ。
現実がどんなに僕を打ちのめそうとも、僕が僕を諦めなければ良いのだと。
多数決の論理で価値観が構成されがちな現代日本において、現時点でマイノリティである事は変わらない。
それでも、マジョリティが正義とは限らないし逆も然り。
多様性の世紀なのだから、僕は僕を貫けば良いのだ。
自分を信じるという事は、きっとそういう事なのだ。
10代はだいぶ振り回され寄り道をし、20代で新しい可能性を発見し、30代の今ようやく芽が出てきた。
不景気といっても豊かな日本で、ただでさへ頑固でひねくれものの自分が、いわゆるテンプレみたいな人生を歩むのは耐え難い苦痛だったが、人と違う道を選んでもまた茨の道のり。
20代までの時間なんて全体の半分にも満たないのに
まるで全てであるかのような教育が大嫌いだった。
それでも、社会に出て思う。
大学卒業・就職までの20代前半までの努力
もっと言ってしまえば「職業選択までの努力」をした人と
それ以降の「職業選択後の努力」をしている人。
本当に必要なのは後者なのにも関わらず、職業選択後の努力をしている人の少なさに就職後絶望した。
それは僕が躓いてしまった、職業選択までの努力をしていた人たちだったからだ。
たぶんそれは、職業選択後に努力をしなくても良かったんだろう。
もちろんそんなものは少数であると思いたいが、努力と呼ぶにはあまりに陳腐なものを誇張し立場やバックボーンでそれを正当化するまぁクズかな?って人や、会社にぶら下がってれば給料の入る大人に対しての強い不信感だった。
逆に言えば、そういった人達を反面教師にし
やれる努力をやらない人が多い分ライバルが少なくて良いやとポジティブに捉え今があります。
僕はネガティブではありません。
努力しているように見えないのも知っています。
そんな事はどうでもよかったのです。
This is my life.
ちょっとカッコつけました。
いや、ちょっと中2っていうかそもそもそれカッコいいのか?って話だけど
僕の人生の責任は僕でしか取れないし、どうするかも僕以外は決定出来ないんです。
This is my life.
政治、宗教、マルチにタブー。
ナメんな。潜った修羅場の数が違うんだよ。
死ぬ覚悟を決めた事のある人間が、負ける道理が見あたらねえよ。
//
ps,冒頭、個人として不利益が大きいのは、個人で社会を変えようとしたからだ。
社会規模の事を目標にしていて、個人としての損益を考えるのは整合性がない。
ていうより、間接的恩恵なのでイメージがし辛いのだ。
だが、これからはそれすら変えていく。
未来は希望の強さに比例する。
Get active!
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿